丸く収めるのは抑圧?自分を殺さず「真の調和」を築く在り方
「まあ、ここは丸く収めましょうよ」
そんな言葉に、得体の知れない息苦しさを感じたことはありませんか?
日本社会で長らく美徳とされてきた「丸く収める」という風習。
波風を立てず、物事を穏便に終わらせることは、一見すると平和な解決策に見えます。
しかし、その「丸い形」を作るために、誰かの意見や個性が削り取られてはいないでしょうか。
私たちが「平和だ」と感じているその光景は、もしかしたら誰かの沈黙によって作られた、単なる「思考停止」や「抑圧」の結果なのではないかと気づかされます。
「丸く収めること」と「真の調和」の決定的な違いはなんだろうか?とあらためて考察する場面に出会いまして、そして自分を殺さないための「在り方」について考えてみました。
「丸く収める」と「調和」は、全くの別次元
この二つは、似ているようでいて、その性質は真逆です。
丸く収める【静止と加工】
異論や違和感を「デコボコ」と見なし、それを削り取って滑らかな球体にすること。
そこにあるのは、個人の消滅と、波風を立てないための「沈黙と死んだ静寂」です。
強い者が弱い者を黙らせる、支配の構造が隠れています。
調和(ハーモニー)【躍動と共鳴】
異なる音色(意見)が、それぞれの個性を保ったまま、対話を通じて一つの響きを作ること。
そこにあるのは、互いの違いを認め合う「生きた躍動感」です。
自分を削って「丸」の一部になることは、調和ではありません。
それは単なる自己犠牲なのです。
う〜ん、自己犠牲を美徳とする風潮もありますから、厄介ですよね〜。
立ち止まるという「最大の勇気」
社会やコミュニティの「同調圧力」という自動運転を止めるには、「勇気を持って立ち止まること」が必要です。
「みんなが納得しているから」「これが丸い解決策だから」という流れに飲み込まれそうになったとき、一呼吸置いて自分に問いかけてみてください。
「この結末に、私の心は死んでいないか?」
違和感に気づき、思考を止めないこと。それ自体が、時代錯誤な抑圧に対する、もっとも静かで強力な抵抗になります。
状況に流されても、心まで削らなくていい
とはいえ、現実の社会では、自分の力だけではどうにもならず、その場が「丸く収まってしまう」瞬間もあるでしょう。
ですが、たとえ状況がそのように進んだとしても、あなたの心まで一緒に丸く削る必要はありません。
「今は便宜上この形に従うけれど、私の違和感は消えていない」
「私は私として、この結末をただ見届けている」
そうやって、心の中で自分の「角(個性や違和感)」を握りしめ続けること。
それもまた、自分を殺さないための立派な「在り方」です。
この在り方が一番エネルギーを使うので、根負けしやすいけど、ここは踏ん張りどころ!
諦めるのは最後の最後ですし、自分の気持ちを諦める必要はないんですよね。
「内なる自由」と「慣れ」の繊細な塩梅
ここで一つ、注意したいことがあります。
「心の中で自由ならいいや」という思いが、いつの間にか「単なるあきらめ」や「麻痺」にすり替わってしまう罠です。
「どうせ言っても無駄」と違和感をゴミ箱に捨ててしまうのが「慣れ」
「今はあえて波に乗るが、この違和感は忘れない」とポケットに入れておくのが「内なる自由」
そう考えると、丸く収めてしまうと他人の気持ちをゴミ箱に捨てさせてしまう行為にもなりかねませんよね。
捨てさせないようにすることも大事ですけど、捨てさせてしまっていることに寄り添う心を持ち合わせていたいなと思いました。
内側で自由でいることは、あきらめることではありません。
次に立ち止まるべき瞬間のために、静かに、しかし着実に自分の牙を研いでおく。
その絶妙な塩梅こそが、大人の、そして誠実な「在り方」ではないでしょうか。
自分を殺してまで守るべき「和」はない
「丸く収める」という呪縛から、自分を解き放ちませんか。
とその前に、「丸く収まる」ことに慣れていることに気づかなくてはいけませんね。
私たちは、誰かに形を整えられるための粘土ではありません。
それぞれの旋律を奏でるために、ここにいるのです。
自分を殺してまで作った「丸」は、いつか必ず歪みます。
デコボコのまま、他者とどう響き合えるか。
その手間と時間を惜しまない生き方を選ぶこともできます。
まずは、目の前の小さな違和感を、消しゴムで消さずに見つめることから一緒に始めてみませんか。

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