感じるって身体の体験のこと
インドネシ語で「美味しい」は「enak(エナッ)」と言います。
ワルン(食堂)などでご飯を食べていると、「Enak?美味しい?」とよく聞かれます。
enak badan
badan=身体、という意味で、「美味しいenak+体badan」=調子が良い、気分が良い、体調が良いという意味になります。
enakの本来の意味「美味しい」は、身体が感じる体験。
頭は「美味しそう」という視覚の経験です。
なので、体調、気分、気持ちは、身体の感じる体験なので、enakを使うんです。
ちなみに、マッサージで「気持ちいい」も、セックスの「気持ちいい」も身体の体験なので、enakを使います。
昨今、「感じる」ということに着目されていて、「私を感じていますか?」と問いから始まるセラピーもあるようです。
私たちは、頭の中の経験を「感じる」と誤認してしまう癖のようなものがある。
これが案外、厄介だったりするんですよね〜。
なぜなら、「私」を感じていないので、自分がどんな気分で、何を感じ、どんな行動を紡いでいくかの想像力、考察力が、格段に落ちている状態。
これは、直感力にも関わってきて、五感も鈍くなる。
五感も、身体の体験ですからね。
「感じる」という体験より、「感じるているつもり」の経験の方が優位になっているように思います。
頭の感じるって、ジャッジを生むんですね。
どっちが得で、どっちが正しくて、どっちが賢くて、どっちが優位か、という損得ばかりの計算が行われます。
一方、身体の感じるは、今の自分が何を感じていて、何を体験したら、心地よくいられるか。という、心地よさを生み出すんです。
ところが、この心地よさを頭で感じている人は、損得の心地よさ、いわば自分がいかに優位に立てるか?の、結果に対する評価に傾倒した心地よさを生む。
だけど、身体の感じるは、結果はどのようなことであれ、それまでのプロセスを楽しみ、結果には執着はありません。
どのような結果でも、受容し、さらにステップアップへと紡いでいきます。
この違い、わかりますかね?
と言っても、言葉で表現できる分野より、身体で感じる部分の多くは、言語が当てはまらない場合がほとんど。
だけど、私たちは、頭で答え=正解を求めるので、言語を当てはめます。
その言語が、これまた微かに違う表現をしてても、それを鵜呑みにしてしますのが頭の感じるという領域。
身体の感じている声を拾い上げるのは、少しばかり精神力が必要です。
声なき声や自我の声と共にいる力は、タフさを伴うからです。
結果がわかるのは簡単で楽かもしれないけど、その分、それだけ浅い解釈しかできなくなります。
ご自分のことを浅い解釈で終わらせるのはいいですけど、多様化している人間関係を構築していく上では、他者の気持ちに寄り添える深い懐は、お互いを心地よくしてくれますよね。
生きていく上では、不快な経験もします。
それは、私たちが傲慢にならないように授けられた贈り物なんですよね。
それを排他する、排除するということは、どういうことか、深く自分と繋がって「enak」を体験してみてください。
どんな答えであれ、答えは自分の中にしかないのですから。
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